■「尼崎は醤油の名産地」−現在の尼崎しか知らない人々には信じられないような話ですが、明治から大正にかけての尼崎で「醤油」は重要な産物の一つであり、また広く知られた存在でした。
当時、尼崎の醤油は「尼の生揚」と呼ばれ、独特のウマ味と高い香気を持つ優れたもので、川辺郡誌にも「・・・色澤、芳香、醸味共に其度に適し、龍野、小豆島の間に介在して関西醤油の醇良と称へらる・・・」と記されています。

■「尼の生揚」は「寒」に仕込み、愛染祭から土用にかけて搾汁する低温短期醸造で、さらにぎりぎりの食塩分での仕込み。この何でもないことが、実は醸造に最適の条件であることを彼らは身をもって学びとっていたのです。驚嘆というほかありません。

■尼崎の醤油産業は「舟弁慶」で名高い、義経と静御前が別離の悲運に泣いたという大物ヶ浦あたりで興ったといわれます。

〈造醤油商 大塚萬次郎商店 引き札〉

■醤油醸造がいつごろから始まったものかは明らかではありませんが、大塚茂十郎家は亨和元年(1801年)には尼崎で醤油造りを始めたと言われています。

■ 尼崎の醤油製造高は明治7年の物産表によると尼崎の工産物のうちの最多額(年産28,000円)に達し、兵庫県下(摂津五郡)の43.6%を占めていました。明治の半ばに一層発展し26年には15工場55,000円の生産を見るまでになり、27年にはサンフランシスコまで輸出、36年には尼崎醤油醸造同業組合も設立され、大正の初めに最盛期をむかえます。
しかしこの醤油も大正の半ばには生産が半減、昭和に入ると工場も減り、太平洋戦争の始まった昭和16年に中堅業者が集まって作った尼崎醤油株式会社が昭和25年に消滅したのを最後に「尼の生揚」は尼崎から姿を消すことになります。

【川田正夫著「日本の醤油」「尼の生揚ものがたり」等より引用】